姫路で治療家として私がこの仕事をしている理由
私の思いを聞いてください。
1982年、三重県紀北町という田舎で生まれました。家族は両親と姉一人。スポーツが大好きな傍ら、
家に帰ると一人でずっと絵を描いていたりと、好きなことに一人で没頭するのが好きな子でした。
肉体労働と交通事故の後遺症でいつも身体の痛みと戦っていた父がいました。幼いころから、辛そうな父をみていつも肩や背中をマッサージしてあげており、その時に父がすごく喜んでくれていました。
子どもながらに喜ぶ父の姿をみて自分もうれしい気持ちになっていたのを覚えています。
父はよく これからの時代はどこでも働けるように手に職をしっかりつけておいたほうがいい。
といつも言っていたが当時は深く考えることもありませんでした。
中学、高校とバスケットボール部に所属し、休まず毎日練習に明け暮れていました。
そんな矢先、
成長期と重なり膝の痛みに襲われました。両膝とも痛くなり、整形外科に通っておりましたが、
シップが出たくらいで特に対処法も指導されることもなく、痛くなったら検査してもらったり、シップをもらったりするくらいでした。
高校になっても痛みが続き、とうとう膝のすねの骨がレントゲン上ではがれてしまっておりました。
幸い試合には我慢しながらでておりましたが、進路を決める際にふと、幼いころの父の言葉を思い出しました。手に職という言葉を。
その後学校を調べ、自分の様に身体を痛めたときに、
治す場所がある、治療が出来る資格があるんだ、という事を知りました。
その後三重を出て大阪のスポーツトレーナーの専門学校に進学することになりました。
在学中身体の勉強がしたくて、整形外科に勤めながら学校に通っていました。
患者さんを良くしないと、というプレッシャーから移動中は常に解剖学の本を手に持ち、
毎日が勉強、ときには深夜まで治療の練習と成長させて頂く経験をしました。
1日200名ほど来る整形で色々な症例を診させてもらうことで、もっと知識をつけて将来自分で治療院をやっていきたいと思い、
国家資格である柔道整復師の資格がとれる学校に進学しました。
その後整形のころお世話になった先生に誘われ、大阪の整骨院で働かせてもらう形となり勤めて3年後、分院長を務めながら10年間勤務しました。
整骨院が乱立する中で、大阪という激戦区ではたらいていたので、拘束時間が長く毎日が必死でした。
そんな日々を過ごしていた時にあることが起こります。
妻が子育ての疲労で倒れる |
自宅で動けなくなった妻をおんぶし、2歳の子どもを抱っこ紐で支え近くの病院に走りました。
精密検査をし、幸い大事には至らなかったが、この生活をなんとかしないと。。という思いが出てきました。
しかし行動力のなかった臆病な自分の性格が邪魔をし、師匠にも遠慮し環境を変えれずにいました。
それから1年後、妻の体調、要望もあり妻の実家の姫路で働く事を決意しました。
とはいえ当時は1日来院100人を超す整骨院で働いていて、保険のマッサージ目的の方を中心に治療してました。このままではまた前の生活と同じではないか。。
その考えもあり保険以外の治療も行う院、根本治療を掲げた保険以外のメニューをとりいれた接骨院で務めることとなりました。
ここで雇われですが院長職を務め、現在の根本治療の土台を作ることが出来て、職場、社長にとても感謝しております。
しかし、保険適応を掲げている以上、安く毎日でも治療が受けられるというリラクゼーション目的の患者さんが、流行れば流行るほど増えていきます。
忙しくなるのはとてもありがたいのですが、結局以前のように薄利多売な生活に逆戻りしてしまうと感じました。
雇われなので、余裕ある生活でもなく、朝も1番早く家をで、帰りも遅い時は12時を回ってしまう生活。。。
本来急性外傷でしか保険適応ができないにもかかわらず慢性腰痛、肩こりで保険を適応させて、数百円治療をする毎日。
「やっぱりおかしいのではないか」という思いがめばえてきました。保険適応だとどうしても、できる治療とできない治療がでてくる。また雇われの身であることもあって、通り一遍の施術しか提供できません。
「この患者さんを、ここまで治してあげたい」と思っても、保険が邪魔をし、またその整骨院の方針とルールが邪魔をしました。そんな感じで悶々とした日々を過ごす中で・・・・
妻が2回目の体調不良で倒れる |
今回は自分に連絡がないまま、救急車に子どもものせて病院に運ばれていました。家にいる時間も少なく、かといって収入面で家族に良い思いをさせているわけでもありませんでした。
家族だけでなく、離れた田舎の両親やお世話になった身内にも年に数回しか会えない日々。
このまま行動せずに歳をとっていっていいのだろうかという不安、危機感、焦りの思いがどんどん強くなっていきました。
そんな時に、私より先に治療院を開業されている先輩先生の話を聞く機会があり、先輩先生が、自分のやりたい治療をし、
患者さんを幸せにし、尚且つ家族との時間もちゃんと確保され、自分が理想とする生活を送っていることを聞かされて、
「自分もこのままではいけない」と思い、すぐに今の整骨院に退職の意思を伝えました。自分の治療院で、自分が納得のいく治療をし
自分が治療という好きなことに没頭できる状態になりたい。
そして患者さんの身体の悩みを最速で改善させたい、じっくり話を聞き、患者さんの悩みとしっかり向き合い、痛み、症状だけでなくその人の明るい未来を作る手助けがしたい。
尚且つ奥さん、娘、との家族の時間を大切にしお互いの両親に早く恩返しがしたい。そんな思いでこのたび
「ウッディカラダ整体」を開院するこことなりました。
このページをお読みのあなたへ
もしその症状がなければ、今よりももっと楽しく過ごせるのではないでしょうか?
もっとやりたいことが出来るのではないでしょうか?
家族に心配をかけずに済むのではないでしょうか?
私は当院に来られる1人1人の問題を解決したいと毎日、施術を続けてます。ただやみくもに痛いところをマッサージするのではなく、
身体の原因を探し、その状態を伝え、あなたに納得して頂いた上で治療をおこなうので、根本治療を提供できる自信があります。
そして悩みを解消するために全力で取り組みます。きっとあなたのお役に立てるはずです。
プロフィール
1982年7月生まれ
出身 三重県北牟婁郡紀北町
(現在は妻の実家近くの兵庫県姫路市在住)
家族 妻 娘1人
資格
柔道整復師 健康運動実践指導者
キネシオテーピングトレーナー
趣味 好きなこと
モーニングに出かける スノーボード
朝のランニング 読書 子供と遊ぶ
一緒に身体の目標を達成し、明るい未来を
てにいれましょう。お悩み、ご相談は
気軽にご相談ください。